アイドルとかバンドマンとか障害者も、どれもある意味見世物なんよね。

アイドルとかバンドマンとか、人前で歌ったり踊ったり演奏したりする人たちは、往々にして、セットも含めて、その存在自体が見世物だなあと思うときがあります。ある意味、当然な話ですが。プラスの意味でね。

でも、わたしを含め、障害者と呼ばれる人の中でも、マイナスの意味で、見世物みたいになることが多いですよね。最近だと、さらに一歩踏み込んで、感動ポルノみたいな言葉もあったし、まあ、そもそもの構造上、健常者の皆さんは、あまり見たくない事実なのかもしれませんが、あるわけです。そういう視線が。誰が否定しようと、この世の中には。

一番の違いは何かと言われたら、アイドルとかバンドマンとかになるのは、偶然見いだされたという場合もありますが、個人の希望とか選択とかが元にある場合がそもそも多いと思います。でも、障害者になるのは、それとはだいぶ意味合いが違うように感じます。障害者になるという選択をするのは、選択そのものが、個人にはコントロール不能な場合が多いわけです。人によっては、病院のベッドで目覚めたとき、医師から説明を受けたとき、障害者手帳を取るときなどに、現実に直面します。ああ、自分は障害者なんだ、と。その瞬間、世界は一変します。

わたしの場合、その気持ちはもう言い表すことすらできませんでした。気持ちの折り合いがつくまで、だいぶかかりました。それまで安全な場所から、見世物小屋を覗いていれば良かったけれども、実は今日からわたしが見世物なんだ、しかもそれがアイドルとかバンドマンみたいに舞台の上できらきら輝けるんじゃなくて、指差して笑われる存在になったんだと。

もちろん、障害者にも人権は当然ながらありますし、障害者を見て笑うことが公然と許されているわけではないんですが、時々思うんです。意外と、色んな意味で見世物になる人というのは、とても遠いけれど、ある意味、表裏一体というような面もあるように感じます。それは、孤独という面において。尾崎世界観さんの本を読んだときに、なんだかふとそう思いました。特に、声が気持ち悪いとか、もう本人がどうしようもできないことを批判されたりすることが書かれていて、それってもうどうしようもなくわかりあえない、すごく孤独な、いきなり卵投げつけられるみたいな、一方的なやり取りで、なんか既視感あるなと。個人的には、尾崎さんの声をそう思ったことはないですが、なんだか見世物という言葉を思い出しました。

そんな感じで、プラスの意味での見世物の中にも、確実に孤独はあります。その土俵に上がるのが、個人の選択かどうかは別として。それは、多分、ユニゾンのお三方もきっとそうで、尾崎さんみたいな批判は少ない方だと思いますが、ほんとステージに立ち続けるのは、覚悟がいることだなとひしひしと感じます。なんか最近、尾崎世界観さんのことばかり書きすぎではなかろうかと思いますが。

でもさ、声が気持ち悪いって言われるの、すごい読んでて刺さりました。他人事ながら。