ただし、てめえらの側にも責任はある。

昨日、嵐の二宮さんのスキャンダルについて書きましたけど、その続編です。穏やかならぬタイトルですけど、まあちょっとお付き合いいただけたらと思います。

そもそも、わたしがドルヲタというか、より正確にはジャニヲタになったのは、大学四年生のころで、あややさんがやってるようなアンケートの全体的な傾向を見ると、高校生以下の人もいるわけで、早い方ではありません。

前回書いたように、わたしも大概淡白なファンですが、一緒にライブ行ってた子もかなり淡白な方で、何度かあったスキャンダルでも担降りすることもなく、チケットが取れたら、ただ現場で楽しく過ごすというくらいの感じでした。一口に言っても、色んなスタンスの人がいるので、悪口言っても仕方ないですが、一部にはリア恋的な感じのファンもいるわけじゃないですか。あれは知ったとき、ほんとにびっくりしました。嫌味じゃなくて、たまたま周りにいなかったから。

古い言葉を引っ張り出してくると、この国には、茶屋遊び的な文化があるじゃないですか。特に、ここで念頭に置いているのは、芸者や遊女とお客さんとの距離の取り方のことです。専門家じゃないので、間違えてたら申し訳ないんですが、それと一緒だと思ってたんですよ。さすがにアイドルは身請けとかはできませんけど、遊び方として、立つ鳥跡を濁さずみたいな感じで、たとえばライブなら、楽しい空間を共有する。終わったら、またねって別れる。そういうものだと思ってました。だから、スキャンダルがどうとか、リア恋とかって、純粋になんだろうと思ってました。語弊を恐れず言うと、アイドルに執着すると、スキャンダルとかでつらい目見るの自分じゃないですか。手に入らない、究極の他人だと思うんです。

でも、そこにはアイドル側の歪みもあって、記憶違いだったら申し訳ないんですが、たとえばドル誌とか見ると、もし付き合ったらとか、記念日はどうするとか、主にリア恋してるファンの勢いをさらに煽るようなことをやってるわけです。それがお仕事だから。アイドルに限らず、大なり小なり、芸能人ならよくあることですが。それを見るたび、もうやめてくれよと正直思います。それは、ぱぷりこさんの言うところの、恋心の搾取なのでは?と正直思います。リップサービスして、売り上げを伸ばしてるわけで。あと、誰とは言いませんが、よくあるCDとかの特典商法とか。そんなことを日常的にやっていたら、ジャニヲタに限らず、そりゃスキャンダルで怒るよなあと思います。アイドルが好きだって気持ちの完全なる商用利用だから。よくできた仕組みです。そこに一度ハマると、なかなか出るのが難しい。特に、リア恋の人は。

ファンの側に、あるべきアイドル像みたいなのがあると同時に、アイドルの側にも、あるべきファン像みたいなものがある。だから、その一線を越えると、ストーカーとかスキャンダルとかで問題が起きます。アイドルは、基本的にパブリックイメージを保たないといけないし、ファンはアイドルの活動を支えないといけない。言葉にすれば、ものすごく単純な仕組みだけど、ファンの側の原動力になるのは、ほんとにシンプルで、アイドルが好きだという感情です。その思いは、その本人に意識はないかもしれないけれど、わたしの知る限り、大体搾取されます。アイドルも大概搾取されてるんですが、ファンも同様です。何この救われない感じ。書いてて戦慄してきた。

そういう気持ちが肥大化して、無視できなくなったので、わたしはファンという立場からはほとんど引退しました。チケット当たったら、ライブ行って、楽しく過ごしてさようならする。そもそもが淡白な方だったので、正直今の方が気楽です。もともとあんまり交流もしないし。人それぞれだなあと、改めて思いました。前回に続き、またまた長文になってしまって、ごめんなさい。

※リア恋してる人とかを糾弾したいというエントリではないです。念のため。

元ドルヲタが、スキャンダルについて考えてみる。

色んな人を見るたびに、ずっともやもやしてて、でも今までうまく言語化できなかったんですけど、やっと書けそうなので、書きます。今日のテーマは、アイドルです。さらに言えば、タイトルにあるように、アイドルとスキャンダル。

わたし自身、そこそこドルヲタやってた時期がありまして、端的に言うと、嵐が好きだったんですね。基本的には、皆好きだけど、二宮さんが一番好きでした。自分が実際にファンだった時期の彼のスキャンダルの中で、一番びっくりしたのが、佐々木希さんとの熱愛報道で、今思えば、そのころが一番二宮さんのファンだったと思います。スキャンダルで担降りすることはなかったですけど、しばらく複雑な気持ちでした。そりゃあんなに演技出来て、トップアイドルなわけだから、スキャンダルの一つや二つあって当たり前なんだろうなと思ってましたが、お相手が佐々木さんレベルになってくると、あまりにも住んでる世界が違いすぎると思いました。前にちょっとツイッターでも書きましたけど、嵐さんたちって、普段は親しみやすさとかを雑誌やテレビとかで前面に押し出して活動してるように見受けられるんですが、無意識的にそこに染まってた自分を自覚したというか、はっと目が覚めたというか、一般人と芸能人の住んでる世界の違いをこのスキャンダルではじめて痛感しました。最初から頭ではわかってましたが、感情としてわかったのはこの時がはじめてです。

その後、社会人になって、仕事が忙しかったということもあり、自然と以前ほど雑誌やテレビを見なくなりました。二宮さんのことは、やっぱり応援していたので、出演する映画とか見に行きました。個人的な好みを言うと、演技している二宮さんが、一番好きだったので、二宮さんが出てる映画が見れるのは、本当に嬉しかったです。もうそれだけで満足できるほどには、最高の演技を見せてくれたので、もうこれで死んでも後悔はないなと思うほどでした。今から考えると、感想がかなりおかしいですが。

その後は、皆さんご存知の通り、伊藤綾子さんと熱愛が発覚しました。そのころはあまりネットでブログやニュースなどを見ておらず、テレビもあまり見ていなかったので、週刊誌の広告で知りました。最初の感想は、またかよ!というやつで、二宮さん、こういう系統の人好きなんだなあという、きわめて牧歌的な感想を持ちました。色々な場所で、同担の人が、伊藤さんのことをリサーチしているのを見て、すごいバイタリティだなあと思ったりしましたが、不思議なことにその時はダメージを受けませんでした。年齢も年齢だし、結婚が視野に入ってきてもおかしくないだろうと、スキャンダルのだいぶ前から覚悟していたので、わたしがとやかく言うことではないと思っていました。

伊藤さんのことと関係があるのではないかと噂されていた、最新アルバムのソロ曲も、今回はこんな感じなんだなあと思う程度で、すごい騒ぎになってるなあというのが、素直な感想でした。不思議なことに、なんかすごい他人事みたいな顔をしていました。伊藤さんとのスキャンダル以前から、ファンとしての熱量をどこかに置いてきてしまったような感覚があり、そろそろ現役のヲタではなくなってきたなと思い、ファンクラブの更新をやめようかと思っていました。

ところが、とてもありがたいことに、友人からたまたまお誘いを受けて、ライブに行く機会を得ました。嵐の場合、ファンクラブに入っていても、毎年チケットが取れるわけではないので、ほんとうに貴重な機会でした。そこで、ソロ曲を見ました。爆音の中、演出やダンスが本当に素晴らしくて、それまで特に何とも思ってなかった曲なのに、あの時見たパフォーマンスを咀嚼するように、次の日から暇さえあればヘビロテするようになりました。素直に、これからも二宮さんのソロ曲を見たいと思いました。出るたび買ってるけど、やっぱりこのツアーのDVDがほしいと心底思いました。

ファンクラブを更新して、少し経った頃、例のソロ曲をふとした瞬間に再生しました。不思議なことに、伊藤さんに対して、それまであんなに何も感じていなかったのに、ああ、これは伊藤さんの曲だなと感じました。その瞬間、拒否反応が出て、思わず瞬時に曲を止めました。なんとも言えない気持ちでした。

そして、先月末についにDVDが発売されました。全部頭から見るつもりでしたが、一番待っていたのが、二宮さんのソロ曲だったので、数日葛藤して、やっとチャプター飛ばして見ました。ライブで見た時同様、ほんとうに良かったです。買って良かったと思いました。見ながら、伊藤さんのことを思い出して、二宮さんの鬼気迫る表情を見ながら、この時彼は何を考えていたんだろうなとぼんやり思いました。

当然ながら、わたしは二宮さんと何の接点もありません。ただ、一方的にファンなだけで。色々な考え方がありますが、わたしは、アイドルに結婚するな、付き合うなというのは、抑圧的すぎるんじゃないかと思っています。熱愛報道が出れば、住む世界が違いすぎて、びっくりしたり、時々ショックを受けたりしますが、親戚の延長線上みたいな感じで、画面越しに元気な姿を見れば安心し、疲れているように見える時は大丈夫かなと思ったり、でもわたしは二宮さんの友人でも家族でもないので、ただ見届けるしかないので、基本的には、手前勝手にそういうスタンスでやってきました。キャーとか言えなくて、ごめんなさいという感じなんですけども…。とっちらかってきましたが、基本的には、水面下で誰と付き合っていようが、わたしは二宮さんが幸せでいてくれたら、もう言うことないです。そういうスタンスを誰かに押し付けたいわけではなくて、ただ、こういう元ファンもいるというだけの話なんですが、嫌味に感じたらすみません。

アイドルとかバンドマンとか障害者も、どれもある意味見世物なんよね。

アイドルとかバンドマンとか、人前で歌ったり踊ったり演奏したりする人たちは、往々にして、セットも含めて、その存在自体が見世物だなあと思うときがあります。ある意味、当然な話ですが。プラスの意味でね。

でも、わたしを含め、障害者と呼ばれる人の中でも、マイナスの意味で、見世物みたいになることが多いですよね。最近だと、さらに一歩踏み込んで、感動ポルノみたいな言葉もあったし、まあ、そもそもの構造上、健常者の皆さんは、あまり見たくない事実なのかもしれませんが、あるわけです。そういう視線が。誰が否定しようと、この世の中には。

一番の違いは何かと言われたら、アイドルとかバンドマンとかになるのは、偶然見いだされたという場合もありますが、個人の希望とか選択とかが元にある場合がそもそも多いと思います。でも、障害者になるのは、それとはだいぶ意味合いが違うように感じます。障害者になるという選択をするのは、選択そのものが、個人にはコントロール不能な場合が多いわけです。人によっては、病院のベッドで目覚めたとき、医師から説明を受けたとき、障害者手帳を取るときなどに、現実に直面します。ああ、自分は障害者なんだ、と。その瞬間、世界は一変します。

わたしの場合、その気持ちはもう言い表すことすらできませんでした。気持ちの折り合いがつくまで、だいぶかかりました。それまで安全な場所から、見世物小屋を覗いていれば良かったけれども、実は今日からわたしが見世物なんだ、しかもそれがアイドルとかバンドマンみたいに舞台の上できらきら輝けるんじゃなくて、指差して笑われる存在になったんだと。

もちろん、障害者にも人権は当然ながらありますし、障害者を見て笑うことが公然と許されているわけではないんですが、時々思うんです。意外と、色んな意味で見世物になる人というのは、とても遠いけれど、ある意味、表裏一体というような面もあるように感じます。それは、孤独という面において。尾崎世界観さんの本を読んだときに、なんだかふとそう思いました。特に、声が気持ち悪いとか、もう本人がどうしようもできないことを批判されたりすることが書かれていて、それってもうどうしようもなくわかりあえない、すごく孤独な、いきなり卵投げつけられるみたいな、一方的なやり取りで、なんか既視感あるなと。個人的には、尾崎さんの声をそう思ったことはないですが、なんだか見世物という言葉を思い出しました。

そんな感じで、プラスの意味での見世物の中にも、確実に孤独はあります。その土俵に上がるのが、個人の選択かどうかは別として。それは、多分、ユニゾンのお三方もきっとそうで、尾崎さんみたいな批判は少ない方だと思いますが、ほんとステージに立ち続けるのは、覚悟がいることだなとひしひしと感じます。なんか最近、尾崎世界観さんのことばかり書きすぎではなかろうかと思いますが。

でもさ、声が気持ち悪いって言われるの、すごい読んでて刺さりました。他人事ながら。

アイドルとバンドマンの書く本の性描写についての雑感。

クリープハイプ尾崎世界観さんの本を読んだあと、RADWIMPS野田洋次郎さんの本も買った。まだちょっとしか読めてないけど、どちらもそれぞれ生きづらそうな人たちだなあと思う。わたしが言うなって話ですが。ほんとそれ。

わたしは、今はもうほとんど現役ではなくなってきたけど、結構なドルヲタだった時期があって、そこからすると、尾崎さんの本は、ちょっとびっくりした。新刊にも、付き合ったり、関係を持ったりしたらしき女性の存在が、結構明確に出てくるから。

尾崎さんの小説でも、過去にこんな感じだったのかなあと思えるような描写が満載で、それは狙ってやってると思うけど、たとえばアイドルの小説家には、ファン的にそこまで明白には許されてないような気がする。NEWSの加藤さんも性描写のある小説を書いたけど、あんまりエロくないと一部で評判だった。その他のファンの人がどう思ってるかは、NEWSのファンでもないし、わたしにはわからないけれども、個人的に見ている範囲だと、バンドマンとは違って、アイドルという立ち位置は結構制約が多い。加藤さんは、それでもそういう制約をうまく利用していると思うけれど。尾崎さんは、明確にそういうラインを初めからひょいと飛び越えてる気がする。まあ、クリープハイプでの活動を考慮すると、当然と言えば当然ではある。尾崎さんと性描写って、なんか普通に馴染んでるというか、ほとんど何もわかってないファン未満の人間からしても、なんかそういうイメージが結構ある。

ロックだから、バンドマンだから許される、みたいな空気は、前よりも薄くなったけれども、確実にあって、それがいいか悪いかはわからないけれど、でも、たとえば、ユニゾンの斎藤さんが尾崎さんみたいな本書いたら、みんなびっくりすると思う。斎藤さんは、そういう意味で言うと、誰が何と言おうとロックバンドやってるけど、なんかアイドルっぽく消費されてる部分もあるというか、中間地点にいるような、そんな余白がある。こんなこと考えてるのは、考えすぎかもしれないけど。あと、特に、顔ファンの人を糾弾したいとか、そういう意図ではなく。斎藤さんがバンドマンやっててくれるのは、個人的には面白いなあと思う。アイドルでもやっていけそうな容姿で、でもそれを跳ね返すくらい、ストイックな人。非常に面白い。

話を戻すと、それが幸せなことなのかわからないけれど、世の中には、出版という行為を通じて、性を売り物にできる仕組みがある。そこに、尾崎さんは、最初からそうであったかのように、そこにがっちり入り込んでいるように見える。本を読んでいると、性描写自体が歯車だったのか、尾崎さん自身が歯車なのか、わからなくなるときがある。そういうところも含めて、バンドマンって面白いなあとつくづく思う。できることなら、消費されないでほしい。そんなやわな人たちではないと思うけれど。

3月のライオンの後編見た。

突然ですが、香子さんとわたしはよく似ています。彼女ほど美しくもないけれど、あの激しい気性はよくわかる。わたしもそうだから。将棋が全てで、好きで、でも勝てなくなって、存在をまるごと全否定されて、生きる道筋を失ってしまう。わかる。わたしも二度ほど経験がある。

最初は、香子さんと同じで、大好きだった、とある分野で、師匠である父親からお前には適性がないと詰られ、あるときから何も教えてもらえなくなった。あれが最初の挫折。

二度目は、仕事。病気を持ちながら、必死に就活して、やっと手に入れた仕事だった。嫌なこともあったけど、好きだった。だけど、病気がひどくなり、やむなく退職。これが二度目の挫折。

本当に本当に悔しくて、療養中ということもあり、ひきこもった。病気もだいぶひどくなっていたから、生きていること自体がしんどかった。なかなか就労許可が下りず、時間だけが経っていく。焦る。でも、どうしようもない。

でも、時々考える。本当は、勝ち筋があったんじゃないかと。映画の香子さんみたいに。それを自分で見落としていただけなんじゃないかと。最後の最後で自信がなくて、自分を信じられなくて、弱くて、投げ出してしまったんじゃないかと、映画の3月のライオンの後編を見ていて思った。すごく心に刺さった。

零くんもそうだけど、自分のダメな部分も受け入れて、努力を続けないと見えない景色がある。零くんは、映画の中で、それを見せてくれた。とてもとてもカッコ良かった。生きていくのは、すくなくともわたしにとっては、それ自体が勝負だ。盤を挟まなくても、その場に居続けることが、勝負だと思う。勝ち負けだけで、世界は回っていないけれど、生きるのは競争だ。

そして、わたしは、病気を抱えて生きていかなければならない。二海堂くんのように、マイナスのスタートラインから、駒を進めないといけない。それは、本当に消耗することだ。時には、どうしても健常者に勝てなくて、卑屈になる。でも、彼は、そこに留まらない。自分も戦いながら、それでいてライバルを心から応援できる。本当にすごい。あのバイタリティーは本当に見習いたい。

病気であきらめることも多いけど、もう一度、戦いたい。心の底から、そう思う。いい映画を見た。

尾崎世界観のファンとも言えないような、微妙な立ち位置からお送りします。

ファンに激怒されるかもしれないけど、クリープハイプのことは、例のベストしか聴いたことないし、それも数曲しか聴いてない。個人的には、言われてるほど変な声でもないなとぼんやり思ったりした。これはこれで、逆に怒られるかな…ただ、尾崎さんの持ってる、ものすごく高密度な負の感情は、すごく鼓膜に刺さった。小説(何店舗か回って、わざわざ買った。わたし自身、特にファンと呼べるほどじゃないけど)やちょっとだけインタビューを読むたび、わたしが男性だったら、こういう感じだったんじゃなかろうかと思った。いや、わかんないですけど。つか、尾崎さんに失礼か。ごめん。

そして、この度、新刊を買った。なにも情報収集してなくて、事前情報まるでなしだったので、本屋で見て、びっくりしたんだけど、中を見たら日記形式だった。小説やないんかーい!と思ったけど、それがまあ面白くて面白くて、個人的には、祐介より好きだなと思ったりした。途中で一言だけ、ユニゾンの田淵さんと飲んだことが書いてあって、そこくわしくもっと書いて!みたいな気持ちになった。

まあ、それはそれとして、ただ、絶望的なほど不調な状態のときに読んでしまったので、かなりのダメージを食らったけど、リハやライブのとき、こんなこと考えてるんだなあ、しんどいだろうなあとか、参考になった。文字通り、身を削ってる感じがある。小説のときよりも。

祐介を読んだときは、すごく面白かったけど、もったいないなと思うところもあった。当たり前ながら、まだ書き慣れてないような面も見受けられた。すっごい上から目線でごめん。でも、ちゃんと文芸だった。なんちゃって小説ではない。もっと磨くと、もっとすごい景色見れそうだなと思った。だから、期待している。尾崎さん、本業は音楽なんですけども。それはわかってるけど、尾崎さんの本がもっと出版されると個人的には嬉しい。

あんまり先入観持ってはいけないけど、この手の人は、個人的な観測範囲では、短期間で破綻する確率が結構高いように見受けられるので、なるべく長く活動してほしい。

一度社会的に死亡した今は、余生のようなものだなあと思う。

人生における分岐点はいくつもあって、病気と障害があるせいか、すべて生死に直結している。今、何度目の余生だろう。何回も死んで、そのたびになんとか這い上がってきた。それは、自分の負い目であるし、逆に矜持でもある。もしあのとき死んでいればと正直思うこともある。生きていて良かったと思うこともある。本当はどちらが良かったのか、わからない。多分、死ぬまで。

わたしは、欠けた人間だ。欠損した人間だ。自分自身、生きているのに値しないと思うこともよくある。そう言われたこともある。言われても、そこまで腹は立たない。ふうんと思う。生きても死んでも、そういう人が何ら責任を持てるものではないので、聞き流すことにしている。心の底では、あなたが死んだら?と冷めた目で思いながら。

ともかく、わたしは生きている。死にそうになりながらも、なんとか生きている。病気や障害のことを悲観して、早く死にたいと思うこともあるけれど、それでも具体的には何もせず、毎日呼吸を繰り返している。

薬を飲む。1日に何回も、ざらざらと流し込む。誤嚥するのではないかと思うこともあるけれど、飲み忘れることは、ほとんどない。遊びたい盛りに、出来る限り、医師の言いつけを守り、養生を中心とした生活を送っている。行きたい場所に行けない。やりたいことができない。わたしのしたかったことをして、楽しそうにしている人たちを横目に、仕方のないことだと我慢するのは、もう充分慣れた。人生は不平等だと、ずっと昔からわかっている。それでも、病気をうまくコントロールできない。諦めてきたことを数え始めると、絶望的な気持ちになる。

どうやって生きていったらいい?わからない。誰も答えを持っていない。それだけは、ずっと前から知っている。

それでも、生きていくしかない。多分、わたしには、綺麗に死ねる度量がない。運もない。だから、生きる。今のわたしには、それしかできない。あまり生きていたくはないけれど、わたしを今日まで生かしてくれた人たちのことを考えると、わたしはわたしを殺すことがどうしてもできない。この先、地獄しか残されていないのかもしれない。それでも、生きる。それしかできない。本当は薬も病院も大嫌いだけど、そのおかげで生きている。生かしてくれて、ありがとう。なんか遺書みたいになってきたけど、そういう意図はないです。余生のくせに、相当の覚悟がないと生きていけない。弱くて、ごめん。